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鎌倉コラム

歴史や文化、見どころやちょっといい話。
鎌倉には話し出せば止まらないくらい話題がいっぱいです。
どれでも気になるタイトルのコラムをご覧ください。
読めば鎌倉観光がさらに面白くなる、何倍も楽しめる話題をご紹介します。

鎌倉市観光協会フォトライブラリー

鎌倉文学の舞台

歴史の宝庫である鎌倉はまた文学の宝庫でもある。芥川が、夏目が、太宰が足跡をのこし、鎌倉を舞台に作品を書いた。文学の舞台を旅する。

帰源院~
『門』/夏目漱石

帰源院英語教師の夏目漱石が円覚寺の塔頭のひとつ帰源院の門をたたいたのは明治27年(1894年)のことだった。禅に精神のやすらぎを求めたからである。が、漱石のこころは放たれることはなかった。15年後に書いた『門』に、そのときの漱石の心境はうかがえる。空をさえぎる大きな杉に道は暗かった。「その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急にさとった。静かな境内の入り口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の悪寒を催した」。

帰源院には、漱石の「仏性は白き桔梗にこそあらめ」の句碑がある。

小動岬~
『道化の華』/太宰治

昭和5年(1930年)の11月、太宰治と田辺あつみは江の島に近い小動岬の、通称畳磯と呼ばれる平らで大きな岩のうえで、睡眠薬カルモチンを飲んだ。太宰22歳、あつみはまだ19歳。太宰は3日前に銀座の女給あつみと知り合ったばかりだった。あつみは死んだ。しくじった太宰はこの体験をもとに『道化の華』を書いた。

小動岬は七里ガ浜と腰越の浜を隔てるように、海へ突きでた岩山。

長谷~
『山の音』/川端康成

長谷鎌倉では潮騒ばかりではなく、山の音もする。川端邸は長谷・甘縄神明神社そば、背後に山のせまる静寂のなかにある。その音に、主人公は「地鳴りとでもいう深い底力」を感じ、「魔が通りかかつて山を鳴らして行つたかのやうであつた」と死期を告げられたような恐怖を覚える。

川端が長谷に移り住んだのは昭和21年(1946年)、作品を執筆したのは24年から29年にかけてのこと。鎌倉は緑濃く、ふるきよき時代をまだ伝えていた。「魔」の存在は現在より身近だったのかもしれない。

鎌倉宮~
『薪能』/立原正秋

第50回鎌倉薪能鎌倉薪能が秋の催しとして登場したのは昭和34年(1959年)。以来、鎌倉宮をつつむ緑を背景に、薪能は見る者を幽玄の世界にいざなった。立原もまた立会人をつとめるなど薪能に魅了された。作品では「まいねん、薪能をみにでかけたのは、舞曲そのものをみるためではなく、暗い夜を彩る滅びの火に惹かれていたからだ」とその理由を書いた。『薪能』を著したのは39年のこと。鎌倉薪能の存在を広めるうえで、作品のはたした役割は小さくない。

鎌倉宮は大塔宮ともいう。護良親王(大塔宮)を祀っている。

写真:第50回鎌倉薪能  金春流 土蜘 シテ
高橋 忍(撮影:原田 寛)

七里ガ浜~
『安城家の兄弟』/里見弴

七里ガ浜七里ガ浜の砂浜を、安城家の長男文吉と4男の昌造が、傾きかけた陽のひかりを浴びながら歩いていた。昌造は兄のもの悲しそうな表情におどろいた。「自分に近いもの」を感じたからだ。それは、女のことだった。放蕩作家の昌造に対し、文吉は妻なき後も貞節を守っていたのだが…。予感は当たる。文吉は雑誌記者の人妻と心中した。昌造は弟里見の、文吉は兄の作家有島武郎の分身だ。武郎は婦人記者波多野秋子と軽井沢で縊死した。

七里ガ浜は、江の島や富士山を遠望できる景勝地。

鎌倉山~
『青じその花』/山崎方代

山崎方代は山梨県に生まれた歌人。家も家族も職も持たず、酒を愛し、鎌倉に暮らして特異な歌風をなした。たとえば、「生きておればかくおごそかに生鮭の赤き卵を呑み下すなり」。歌は、瑞泉寺の、清らかな水紋をひろげる夜更けの「池にころげこんだ月影」に「菩薩様そのもの」を見る感性から紡ぎだされた。

「庵」を結んだ鎌倉山の一角には、青じそや里芋が繁った。方代は青じそを摘み、里芋を掘り、生をうたった。

瑞泉寺~
『秋』/永井龍男

瑞泉寺うつくしい月に誘われ、物語の主人公は瑞泉寺に月見にでかける。月を待ちながら、住職のこころ尽くしの酒肴に杯を重ねる主人公の前に、黒の僧衣をまとった「月見座頭」がたたずんでいた。と、見えたのは、薄闇に隠れた葉鶏頭だった。「月見座頭」とは狂言の演目。せめて虫の声なりと、と月見にでた座頭が目明きにからかわれるストーリーだ。池に月影がさす。主人公は、「ここ」とは異なる世界へ入っていけそうな、夢幻の境地を味わう。

瑞泉寺の庭園は、夢窓疎石が築いたとされる名庭。

釈迦堂口~
『炎環』/永井路子

瑞泉寺主人公北条時政は頼朝の妻政子の父。初代執権として鎌倉幕府の実権をにぎった。覇権を手中にしようと、御家人が権謀術数のかぎりを尽くしていた時代。頼朝の跡をついだ頼家の乳母、妻がともに比企の縁者だったことから、北条にとり比企は目ざわりな存在だった。釈迦堂口で、眼下の比企の屋敷をみつめる時政の「目は次第に厳しくなり」「『急げ』というなり彼自身も一鞭くれて馬ともども」坂道を一気にかけおりた。

比企の屋敷を目にしたとき、時政はその一族の排除を決心したと永井はみる。時政の南邸跡は、釈迦堂口の切通しにほど近い。

※釈迦堂口(切り通し)は現在通行できません

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