特別寄稿「鎌倉・映画の記憶」山内静夫

2013年4月14日、俳優三國連太郎がなくなった。90歳だった。日本映画界を股にかけ、これぞと思う作品に積極的に出演、常に己のすべてを賭けて役に取り組む、それが三國連太郎という役者のすべてだった。悔いのない人生だったと思う。

1951年2月公開の木下恵介監督作品『善魔』が、三國の役者としての出発点である。芸名の三國連太郎はその時の役名である。鮮烈なデビューだった。きれいな眼をしていた。『少年期』『海の花火』と、その年度に木下作品3本に出演した。松竹にはいないタイプの若手スターとして嘱目された。

然しまだ無収入に近い新人だ。彼はその頃鎌倉に下宿していた。小町通りを真っすぐ八幡宮の前の通りまで突き抜ける処の右手にある鉄(くろがね)の井戸の裏手の古い小さな2階の六畳一間だった。寒い頃だったが小さな手あぶらの火鉢がひとつあるだけで傍に薄い貸布団が積んであった。家も近かったので座布団を持っていってあげたりした。2歳年上だったが、お互いにまだ駆け出しの時代で、仲間意識のようなものがあった。40年近い時間が流れ、久しぶりに大船の撮影所で、三國さんに会った。中老の落着いた紳士だった。しかも凡そ今迠の三國さんからは思い浮かばない松竹調の喜劇『釣りバカ日誌』のスーサン役だった。三國さんは一寸照れたような笑みを浮べ、懐かしそうに私の手を握った。以来ちょいちょい撮影所で会い交遊が戻った。若く明るい奥さんがいつも一緒だった。押しも押されもしない日本の大スターになっていた。2011年、私が鎌倉で関わっている市民団体の主催する映画会があり、三國さんをゲストに招いて、代表作である『善魔』と『利休』を上映し、その間に私が聞き役になって三國さんにゲストトークをして貰った。そのトークも終り、『利休』の上映が始って10分程した時、いきなりグラグラッと揺れた。3月11日14時45分東関東大震災である。

勿論上映を中止し、鎌倉芸術館の外庭に出た。今まで経験したことのない揺れ方だった。夕方になって被害の大きさが次第に伝わり、東京へ帰る道路は信号も消え、通行不能になった。私たちは三國さんも一緒に夕方まで赤い夕陽をぼんやり眺めていた。とに角近いということで、鎌倉の私の家に帰った。電灯も着かず、携帯も通じない。元気な三國夫人がリーダーで三國さんの付人や松竹の松本君たち併せて7、8名。今夜は籠城と覚悟を決め、コンビニの買物とわが家の酒でローソクの火を囲んで一夜を過すことになった。もっとも電灯は夜半までに回復したが、三國さんもそんな状態のまま翌朝を待った。

三國さんとあったのは、それが最後となった。ホスピスのような病院に移られたとは聞いていたが―いきなりの訃報だった。

60年を超える三國さんとの付き合いも、終るときはあっけなかった。人生とは、そんなものさ、三國さんの呟きが聞える。

山内静夫さん

山内静夫(やまのうち・しずお)

1925年、作家・里見弴の四男として鎌倉に生まれる。1946年、慶應義塾大学を卒業、松竹株式会社に入社。1956年の小津安二郎監督作品「早春」より小津組プロデューサーとなる。1978年、松竹株式会社取締役に就任。1992年、鎌倉ケーブルテレビコミュニケーションズ代表取締役社長。2004年から 2012年まで鎌倉文学館館長。2006年から2012年まで鎌倉市芸術文化振興財団理事長。現在、鎌倉同人会理事長。著書に『松竹大船撮影所覚え書』『八十年の散歩』など。

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