近代の海と鎌倉 鎌倉世界遺産登録推進協議会広報部会長 内海恒雄

鎌倉を訪れる人々の中には、海に魅力を感じる人も多いことでしょう。鎌倉の海といえば、昔から「目には青葉山ほととぎす初鰹」と詠まれたカツオが有名で、松尾芭蕉が「鎌倉を生きて出にけむ初松魚(はつがつお)」と詠んだように、江戸っ子に珍重されました。戦後も腰越では遠洋にでかけるカツオ漁が行われ、坂ノ下や材木座でもカツオの一本釣が行われていましたが、次第にアジ・サバ・イワシなどが主になりました。

坂ノ下海岸のシラス干し作り
坂ノ下海岸のシラス干し作り
(昭和41年5月)

ノリの養殖は昭和40年頃に、良質な「鎌倉海苔」として盛んで、年間百万枚を超えるノリで海岸は埋められましたが、ノリの乾燥が機械化されて衰退し、現在ではワカメの養殖が行われています。

近年シラスは、腰越や坂ノ下で生シラスやタタミイワシとして、人気を呼んでいるのはご存じの通りです。鎌倉の海岸にお出かけの際は、地元の漁師さんの生活の場であることもお忘れないようお願いします。

坂海水浴客でにぎわう「海の銀座」由比ヶ浜海岸
海水浴客でにぎわう「海の銀座」
由比ヶ浜海岸(昭和32年ごろ)

鎌倉の海水浴は、明治17(1884)年に、内務省衛生局長の長与專斎が「鎌倉は海水浴場として理想的な海だ」と紹介したのに始まり、避暑地として別荘が造られると海水浴客も増え、「坂東随一、海の都」と言われ、夏には鎌倉の人口が2倍になりました。イベントには東京銀座の有名店が出張したのが、戦後も「海の銀座」と呼ばれたきっかけだともいわれます。

人気を集めたのは「鎌倉カーニバル」で、作家の久米正雄たちが鎌倉を国際観光都市として振興しようとして始めたもので、仮装行列が鎌倉駅から坂ノ下海岸まで続き、数十万人の人出で賑わいました。娯楽の少ない戦後の海水浴場の賑わいは大変なもので、昭和39年の海水浴客は415万人、海の家は300軒余で、海辺は人波で埋まりました。

(写真:安田三郎氏撮影 鎌倉市中央図書館提供)

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