鎌倉武士の形 NPO法人鎌倉を愛する会会長同鎌倉考古学研究所理事 大貫昭彦

*自ら立つ…

日本史の中で、鎌倉時代は他と少し違った成り立ち方をしている。時代の変化は、大抵権力者の争いや海外からの影響で始まるのだが、鎌倉時代は、古代律令制度に苦しんだ農民や地方武士によって開かれた。

鎌倉武士律令制は、国民に土地を給し、年貢や労役を課す制度で、広さは6歳以上の男子は2000㎡、女子はその3分の2だった。結果、農民にはどれほどの米が残ったか。乱暴な計算だが、男は1日2.5合、女は2合の割当になる。結婚して二人の子を得ると、4人は一日5合弱で暮すことになる。

武士も、私領を持っていたものの楽ではなかった。彼らには内裏や摂関家を警備する3年間の大番役が義務付けられていた。滞在費は自費! 所領の少ない海浜の武士には、特に過酷だった。三浦、千葉、北条などの武士団が、頼朝の旗揚げにいち早く応えたのも道理だ。

*この手で切り開く…

旗揚げの結果、米は5合、大番役は6か月になった。武士は、政治の舞台で活躍する身分も得た。しかし彼らの向上心は、政治に留まらず、文化にも高いものを求め、公家文化に学び、禅を取り入れ、力強い、実際性に富む武家文化を作り上げた。

自分で現実を切り開く武士の生き方は、近代にも受け継がれた。鎌倉は保養地、別荘地として各界で活躍する人たちの町になると、新住民は道路や街灯など、街のインフラ整備に手を貸した。

自助の輪は広がり、明治18年には史跡保存を目的に「鎌倉保勝会」が設立された。日本保勝会の結成はこの40年後である。こうした気運は「鎌倉同人会」を生み、民間が図書館、国宝館、歴史道標を建て、戦後の御谷騒動、平成の英勝寺山門復興事業に引き継がれた。最近のゴミの分別、減量に向けた市民活動の成果も、これに繋がるものだろう。

鎌倉には、今も自ら立つ気概、自助の精神を持った武士が生きている。

(写真提供:梓想庵

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